非審判の法則
- YOSHIYOGA
- 5月7日
- 読了時間: 4分
宇宙が私たちを裁かないのなら、自分を裁く理由と権利があるのでしょうか?
非常に高い理想や基準を持つ人がいます、厳しく世界を判断し、行動や思想、感情、さらには空想まで批判します.
その上、他人を自分の基準に照らし合わせて判断し、他人を判断したり自分もまた裁く。
理想を基準として比較する時、世の中を満たすものはありません。
当然ながらこの世は理想の世界ではないのです。
『神との対話』でも書かれているように、神=大いなる魂=自然は完璧な存在で、人間は経験をするために存在しているのだから、間違いを犯し、学び、進化していく経験をする世界なのです。
両親から受けた批判や、受けたと感じる非難で自分を責める
自分に与えている判断を、他人に投射し、他人が「自分をそう判断している」と思います。
神を厳格な親として捉え、未熟な人間を裁き、罪には罰を、善行には褒美を今生あるいは来世にもたらすと想像している人もあるでしょう。
この法則は、道徳を作り出したのは神ではなく、人間自身だということを思い出させてくれる。
大いなる魂は決して人を裁かず、バランスをとる機会と学ぶ機会を与えるだけなのです。

高い理想を持つ人ほど、自分を厳しく裁く、理想から常にプレッシャーを感じ理想とのギャップを感じることを恐れ、自分の能力を誇示しようとする。
自分の正義で人を打ちのめす、言葉を巧みに操り、相手の間違いを指摘することで、自分の正義を鼓舞、誇張する。
ネットの世界では、素性を明かさないまま、著名人の失敗をとことんにまで指摘し、否定して自分を正当化、有能化しているような人々があふれている。
このような事を行なっている事態、マイナスのエネルギーに支配されており、虎視眈々と次のターゲットを探すために、ネットという不確かな世界に飲み込まれていく。
時に人は、身近なパートナーや老いた親、成長過程の子供に対して、自身の正義を押し付けて否定する。
般若心経『菩提』我欲を捨てる事。わが子に対してなぜ、文句がでるのか。あまりにも期待が大きすぎるからではないのか。「明るく元気であればいいさ」「みんなに、なんとかくっついていければいいさ」と思っていれば、子どもをほめてもやれる。
私には、子どもはいない人生だが、パートナーに対しても、あまりにも期待が大きすぎたり、自己の正義を振りかざし、「人はこうあるべき」「大人としておかしい」など感じたり、愚痴にこぼしてみたりすることもある。しかし、その特別な存在が、長く共にいれた奇跡と、出会った頃の自身の心の高鳴りや、高揚感を記憶の中に忘れずにいたら、共に月日を重ねる事の深みや存在のありがたさ、そして、限りある時間を大切にと感じられるかもしれない。
そして、その審判の矛先は、理想の高い人ほど、自分の基準に満たない自分を卑下して、不当に低い自尊心をもつ傾向がある。
長くヨガクラスを行なっていると、良く出会うのが、私のガイドよりも周りの人の動きばかり見てまねようとしたり、思うように柔軟性がない自分を否定的にとらえる言動をする人。
そこには、ちゃんとしないといけない、うまくしないといけないという感情が映し出され、柔らかくないといけないという固定観念が精神的な緊張をも強めている。
そんな人に限って、クラスの一番柔らかい人ばかりと比べたり、長く自身の為にヨガをされている人と比べたりしている。
間違いなく言えるのは、そんなあなたをクラスを受けている人々は、特に長くヨガをされている人であればあるほど、誰もあなたを見ていない。
ヨガとは今この時を、審判せずに、ありのままに感じる事だから。
自分を厳しく判断する人ほど、不思議と自分を批判するように思える人々を、身近に引き寄せていく。まるで、内面の衝動が、他人の行動を左右するかのように。
自分を審判し判断するればする程、エネルギーが遮断され、自己防衛本能や抵抗が生まれ、マイナスパターンに落ち込んでいきます。
審判をやめると変化への道が開けます。
最善を尽くして生き、自分の間違いを受け入れて学び、次は少しでも向上できるように努力すれば、人生はどう変わるでしょう?
自分自身と他人をあるがまま、完全に受け入れたらどんなことが起こるでしょう?
思考をかえていく、神経回路をかえていく、それが上手くいかなかったことも受け入れて、それをまた、積み重ねいく。
それがもしうまくいかなかった時も、受け入れる事から始まるのかもしれません。
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