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あきらめの法則

『あきらめる』は、仏教に語源を持ち、「物事の真理を明らかにして見極める」

「執着を手放して、ありのままを受け入れる」という意味である。現代では願いが叶わないと諦めて断念することをいみする事が多く、私自身もその意味で使っていた。

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生まれてきた時点で定められたもの。生まれた環境や身体的特徴、成長していく中でどうしても実現できないこと。それは人の数だけあるのかもしれない。

その昔にあった、裕福な家に生まれて、いい学校に行って、いい会社に勤めて、結婚して子供ができて幸せになる。誰かみたいになりたい。こんな風になって幸せになりたい。ぼんやりとした価値観に対して、思春期を境に、私はあきらめてきた。

どうしようもない現実に対して不安や憤りもあったが、諦めて断念するというよりは、その型通りに行かないのなら、自分には何ができるのか、そして、何をして生きてくのかを早い時点で考える事ができた。

これこそが今思うと、「物事の真理を明らかにして見極める」このことだろう。


現実を見極めた上で、何を生業として生きていくか、良く考えて高校を出るころには「誰かの役に立つことが、自分のやりがいになる」その思いから、社会福祉の専門学校を選び、年齢と経験を重ねながら、やりたい事、できる事のステップアップを重ねた行先が現状である。


ヨガを初めて十数年、はじめはシルシアーサナを何度もコケなながら、実現して、スコーピオンからピンチャマユラーサナへ、失敗を繰り返しながら実現してきた。逆転のポーズは骨格的に実現しやすいポーズだったのかもしれない。インドでの上級指導コースの修行の中でアジャストを受けながら修行期間だけ、足先に触れる事ができラージャカポターサナ(鳩の王のポーズ)。夢に出てくるほど実現したいアーサナであったが、今年の初めに腰椎ヘルニアなった私には「あきらめる」べきものである。修行や指導を重ねるごとアーサナに執着する事はなくなった。アーサナは身体と心を結びつけて、自身と語り合うものであると今は思っている。確実に今の私の身体に過度な後屈は身体も心も喜びはしない。


「物事の真理を明らかにして見極める」このことが、情報があふれだしている今の時代にはとても必要な事。外からの刺激に意識を奪われず、自己の内側に意識を向けることが必要なのである。それが『あきらめる』ことにつながるのである。

生きていく中で『あきらめる』ことが必要な時があると思う。

叶わない事柄に、執着してとどまり消耗しつづけるより、手放したところから、地に足つけて先を観て進むべき方向へ動き出す。新たに目指す方向へ進むべく、できる事を積み重ねていく。『あきらめる』ことから始まるものがある。

 
 
 

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